弔い(とむらい)

震災から2週間。

今朝も余震が続いたり、都内の水には異変があったり。

その一方で、経済活動が再開し始め、ツイッターにも明るい話題・イベントの告知も増えてきました。

震災から卵やお豆腐などがずっと買えずにいました。
努めて探そうとしなかったせいかも知れませんが、
今日ようやく普通に買うことができました。

いま気になる話題は、福島県を中心とした野菜の出荷制限。

「問題ない」としつつも、容赦なく県単位で指定の産物をまるごと大量処分。

その一方で、食糧の円滑な調達が行き届かず、不安な日々を過ごす被災地の方々もまだたくさんいらっしゃる。

わるいのは誰?

政府?

東電?

マスコミ?

誰でもないです。

誰かのせいにしたいその気持ちは分かるけれど、・・・・。

誰かにぶちまけたいその怒りがこみ上がってくるのも分かるけれど。

戦後の繁栄と平和ボケした私たちの社会や個人の意識が生んだ代償。

あまりにも大きいけれど。
あまりにも大きくて、これからもっと肥大化していくかも知れない代償だけど。

でも、いまは静かにそのすべてを受け入れて、ただ自分ができることをする。

政府の情報コントロールも気になる。

東電の「隠ぺい」は言語道断だけど、
過度な報道をするマスコミはいづれ淘汰されるだろうけれど、

パニックを招いてはならないという大義名分が理解できない訳ではないけれど、

「だいじょうぶ」「だいじょうぶ」と言いつつ、
原発からの避難区域を20kmから30kmへと広げていき、

「だいじょうぶ」「だいじょうぶ」と言いつつ、
福島県を中心に、野菜産物の廃棄処分を次々に決定する。

言っていることと、実際に行なっていることには、
大きな差がある。

これから私たちは少なからず「放射能」と向きあって生活をしていかなければならない。「ある程度」をどこまでも容認していかなければならないかも知れない。

テレビの解説で専門家と名乗る人が出てきて説明をしてくれるけれど、
少なからず、その語尾や言葉の端々に、
「今のところ〜」とか、
「〜ということもある」などと添えて、言葉を濁らせたりする人もいる。

はっきりしたことが分からないなら、それで構わないけれど、

時間が経ってみないと確信がもてないことは、
原発に限ったことではなくて、
世の中には一杯あるけれど、

でもいま現に、
追悼の死者・行方不明者の数が公表され、日を追うごとに増える。

地震と被ばくは分けて論じないといけないけれど、まるごとおかしなっているかも知れない今のニッポンと私たちの個人の意識の中で、切り離して考えるほうがいまは不自然。

だから明るい話題を出そう。
だから前向きに生きていこう。

そうしたいつものこと、
当たり前のことがとても大切だったりする。

起きてしまったことは、
そうであるものとして静かに受け止め、

これからできることは、
ひたむきに取り組んでいく。

各自ができることを懸命に努力する。
心底笑い、楽しむ日々を過ごすことも大切。

それがきっと犠牲になられた方々への供養であり、

これから育っていく子供たちに渡していくバトンになることを私たちは知っている。

もっと魅力のある、もっと元気な世の中にして引き継いでいくことを、私たちはいまふつうに取り戻していかないといけない。

ありふれた奇跡を、今日も明日も精一杯生きる。

このとりとめもないブログをラストまで
お付き合い頂き、有り難うございました。

コメントを残す